この記事は『自作したマシンでインディ500の本戦へ挑む!その結果はいかに?』の続きです。
フレームの溶接作業を始めようとしたとき、水平対向エンジンを積んだニューモデル"911"が発表される。スタインはオークランドでフォルクスワーゲンとポルシェのディーラーを務めていたジンソン・パシフィックに頼み込んで3基の911用エンジンを入手することに成功する。まあたらしいエンジンとともにルークス&ショーマンを訪れたスタインに、ショップのスタッフは「止めたほうがいい。実績のある356のエンジンだって十分なパワーが得られるし、なによりも軽い」と説得したが、スタインはあくまでも911用エンジンにこだわり、最後はルークス&ショーマン側が折れる格好となった。
シャシーはスタインがフレームをデザインし、BMCのジョー・ハフェーカーがパイプを溶接して組み上げた。ハフェーカーが語る。「フレームや駆動系などは僕が組み上げました。当時、僕たちは同じくインディに参戦しているMGリキッド・サスペンション・スペシャルを並行して作っていたので大変でした。なにしろアルのアイデアは少し変わっていましたから」
ハフェーカーはクロモリのパイプで美しい三角形のフレームを組み上げると、ここに2基のポルシェ・エンジンや駆動系を搭載。スタインはこれをサンフランシスコの自宅ガレージに持ち帰ると最後の仕上げに取りかかった。スタインは昔のレース仲間に声を掛けてレーシングチームを組織する。クルーチーフは電気系エンジニアのスキーツ・ジョーンズで、ルークス&ショーマンのハインツ・ハムスターがチーフメカニックを務めた。
ルークス&ショーマンに届いた911のエンジンは一度分解され、鍛造ピストンを組み込んで圧縮比は11.5まで引き上げられた。さらにアルコール燃料に対応するためのモディファイを実施。1基あたり210bhpを発揮したので、インディ500の古くからの常連たちには出力面で明確なアドバンテージがあった。
スロットルを油圧系でコントロールするのも新しい試みだった。ふたつのポルシェ製ギアボックスはひとつのシフトリンケージで結び、上下逆さまにして搭載された。エンジン搭載位置を低くして重心を下げるのが目的である。
エンジンをチューニングする過程で、オリジナルのソレックスでは目標の出力が得られないことが判明した。代わりに1基のエンジンに4基のウェバー48IDAを装着することにしたが、このままでは片バンクずつひとつのスロットルが余ってしまう。そこで余ったスロットルにはカバーがかけられることになった。
チームのスタッフは誰もが献身的な働きをしたが、もっとも多くの仕事を受け持ったのはスタインで、長年貯めてきた資金はパーツの購入などで底をつきかけていた。そればかりかマシンの準備も計画より遅れている状態だった。
このマシンにいくつもの問題点があることをアイテルとマニングは気づいていた。アイテルはひとつのギアボックスとふたつのクラッチを組み合わせて軽量化することを提案していた。マニングは、1本22ポンド(約10kg)もあるハーフシャフトが重すぎると考えていた。911エンジンの信頼性は未知数で、オイルタンクの共用化には問題がありそうだ。フロントの開口部も恐らく不要だろう。マニングが思い起こし、「見るからに重そうで、しかも巨大な燃料タンクを積んでいた。重量オーバーであることは目に見えていた」と回想している。しかし、彼らの意見は顧みられなかった。車重は2000ポンド(約910kg)を少し越えていたが、ライバルのインディ・ロードスターはそれより数百ポンド軽かったのだ。
事前に行われたテストでは140mph(約224km/h)の最高速度を記録したが、これに不満を抱いたスタインはルークス&ショーマンに新しいカムシャフトの製作を依頼。しかし、サプライヤーのミスによりその納品が遅れ、新しいチューンのエンジンはテストが行われないままインディアナポリスに運び込まれることになった。
予選での結果は散々なものだった。マニングが述懐する。「シャシーもいいし、油圧制御のスロットルもうまく作動していた。ドライバーのビル・チーズバーグもハンドリングを気に入っているようだった。ただし、エンジンには何度もトラブルが起きたうえ、とにかくスピードが伸びなかった。予選を通過した最下位のクルマより、1ラップあたり3秒も遅かったんだ」 このとき、予定では9000rpmまで回るエンジンは7500rpmに届くのがやっとだったという。
さらに走行を続けようとしたときエンジンの一部が破損。しかもオイルタンクを共通としていたために壊れた破片も循環して2 基のエンジンにダメージが及んでしまう。残るエンジンは1基のみ。このとき、アル・スタインの夢は潰えたのである。
スタインの悲劇はこれだけに終わらなかった。エンジンチューンの代金を受け取っていなかったルークス&ショーマンはスタインを告訴。困り果てたスタインはマシンを倉庫にしまうと、嵐が過ぎ去るまで身を隠したのだ。
それでもスタインは秘密裏にマシンの改造を実施。ごく少数の友人に助けてもらい、ヴァカ・ヴァレイ・サーキットでのテストに臨む。ここで好感触を掴んだスタインは、フェニックスで開催されたSCCAの最終戦にエントリー。驚くべきことにチーズバーグのドライブで予選を通過したものの、数周しか走行できず、スタイン・ヴァルボリン・ツイン・スペシャルの名が決勝レースのリザルトに載ることはなかった。
フェニックスのレース後にマシンがどうなったかは、いまもって謎とされている。スタインは1980年に死去。1988 年にマニングはマシンの捜索を行ったが、スタインの自宅裏にある倉庫で見つかったのは数点のボディパネル、ステアリング、排気系、そしてサスペンション・パーツの一部だけだった。シャシーやエンジン、それにフレームはどこに消えたのだろうか?
国税庁の捜査を逃れるためにバラバラに分解されたのか? それとも現金を手に入れる必要性から売却されたのか? マシンがどんな末路を辿ったにせよ、スタインはおそらくその投資に見合う満足感を得たことだろう。なにしろ自分が夢見たマシンを作り上げ、それをインディアナポリス・モーター・スピードウェイで走らせたのだから。
本記事は「ClassicPORSCHE」から提供を受けております。著作権は提供各社に帰属します。
"レーシング" - Google ニュース
June 13, 2020 at 02:41PM
https://ift.tt/3dYyopX
プラクティスではあまりに遅すぎたレーシングマシン 実現させたひとつの夢 - マイナビニュース
"レーシング" - Google ニュース
https://ift.tt/2Tf6dv9
Shoes Man Tutorial
Pos News Update
Meme Update
Korean Entertainment News
Japan News Update
Bagikan Berita Ini
0 Response to "プラクティスではあまりに遅すぎたレーシングマシン 実現させたひとつの夢 - マイナビニュース"
Post a Comment