第19回ル・マン 24時間レース決勝を翌日に控えた夜、そのガレージではシルバーに塗装された356SL(#46#47)の最終整備が行われるはずだった。しかし、作業場には重苦しくも緊張した空気が張りつめていた。この日、ツッフェンハウゼンで組み立てられた4台の356SLのうち、3台がテスト走行を完走できなかったためだ。残された時間は僅か。メカニックたちは、47号車だけでも出走できりょうにしようと徹夜で悪戦苦闘していた。ポルシェはたった1台で24時間レースに臨む覚悟を決めていたのである。
この時、ポルシェは1948年にドイツのスポーツカーブランドとして創設したばかりの新参者で、由緒あるル・マン24時間への参戦は大きな注目を集めていた。ポルシェの参戦は、政治的な意味においても極めて大きな意義があったのだ。戦後間もないフランス国内で、ドイツのメーカーが参戦することは決して歓迎されなかった。ル・マンのレースディレクターを務めていたシャルル・ファルゥは、1950年のパリ・モーターショーではポルシェのレース参加を推進していたが、結局、歴史的な背景を理由に参加の許可を先送りした。この状況下でル・マンへの参戦へ押し切った人物は、ポルシェのドライバー兼 レース主任だったパウル・フォン=ギョーム。そして後にフランス国内のポルシェ・ディーラーを束ねることになる、オーギュスト・ヴィエであった。
ヴィエはテロッシェ村に住むジョルジュ・“ジョジョ”・デプレが所有するガレージの一部を、ポルシェのレーシングチーム活動拠点として提供してもらう約束を取りつけた。当時、地元住民はドイツチームの受け入れを強く拒否していたが、デプレがそれを説得した。これにより、ポルシェは何かある度にツッフェンハウゼンから遥々トレーラーでマシンや部品を運んでくる必要がなくなった。こうしてサーキットの近く、テロッシェ村を拠点にすることによって様々なロスが減り、チームの体制は整っていった。 また、当時はユノディエールのロングストレートが終わるエリアにサーキットへの裏口が設けられていたため、サーキット正門周辺の渋滞を避けられるというメリットもあったのだ。
ポルシェが初めてル・マン 24 時間に挑んだ1951年6月、356SLを駆ったオーギュスト・ヴィエとエドモン・ムーシュ組は見事完走し、排気量1100ccクラスで優勝すると共に総合20位に食い込んだ。ポルシェは、この輝かしい成績によってフランスのみならず世界中から好感と注目を集めることになった。
翌年と53年には3台、1954年には4台のワークスマシンが投入され、1台ごとにメカニック2人とクルーを指揮するレース主任を配置するチーム体制が確立された。それに伴い、村の住民もポルシェにゲストルームや寝室、子供部屋をレース期間中にレンタルするようになり、ポルシェを批判する声もなくなった。テロッシェの “Café des Sports” というバーでは、女主人のペシャルが朝7時からチームのために朝食を用意し、サーキットからの帰宅が遅くなった夜でも欠かさず夕食を振る舞ったのだとか。
1980年代初頭、グループCの覇権を極めたポルシェ 956の時代に入るとチームのメカニックたちはレース用のトランスポーターを横付けしたパドックでマシーンの整備を行えるようになり、必然的にテロッシェのポルシェガレージは役目を終える。かつてこの空間で紡がれた物語は伝説となり、それは今でもポルシェの礎として歴史に刻まれている。
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June 28, 2020 at 08:31AM
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